三神峯公園
仙台市の桜の名所で知られる三神峯公園、この場所には戦前・戦中・戦後。現代といろいろな歴史を辿ってきました。 三神峯には、それぞれ此の地で学んだ人達の”回想の地”になっています。むろん古代は、縄文時代前期の三神峯遺跡(公園一帯) 竪穴住居跡@、横穴式古墳群、富沢窯跡が、見つかっています。 明治9年・14年には明治天皇が巡幸A、明治44年には、皇太子(大正天皇)も榴ヶ岡幼年学校に台臨、翌日三神峯にも 御出でになりました。記念碑Bと記念の松Cが植えられています。 大正8年に、大野田出身で戊辰戦争・日露戦争において活躍した「 桜の栽植は大正5年で第四代西多賀村(山田・鈎取・富田。富沢・大野田)村長小畑忠次郎氏が青年団の奉仕を受け、数百本の桜を植樹。 のちに、昭和2年から二ヵ年かけて、八木久兵衛さんの寄付により、三神峯から多賀神社までの道路沿いに、桜の木を植えました。 昭和9年には、多賀神社Eの所有であったこの地が国有地になり 翌年、仙台陸軍幼年学校Fの建設が始まりました。昭和12年、「雄健神社」Gの建立、そして、榴ヶ岡校より41期生入校H、13年には42期生が入校と、 本格的に三神峯校が復校致しました。第46期生までが卒業し、47期〜49期生は終戦により、卒業しなかったようです。48期生は「仙幼48期会」として、 現在も親睦を深めてるということです。この幼年学校の校長に、「千田貞季(せんださだすえ)陸軍少将」が着任。小笠原硫黄島の栗林忠道陸軍中将から 「上陸作戦に長けた旅団長を欲しい」と東京に求められ、昭和19年11月27日、千田貞季陸軍少将が、硫黄島に赴任、「栗林忠道大将」の下で、アメリカ軍と 戦いました。 昭和20年9月、仙台空襲により全焼した旧制第二高等学校が明善寮Iと共に、三神峯の地に移りました。昭和25年東北大学第一教養部と 名称が変わり、昭和32年川内に移転。 昭和42年仙台市が無償貸与契約を結び、現在の三神峯公園Jとして広く市民の間で親しまれています。 |
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西多賀のシンボル的存在、昭和42年開園、桜の名所として知られております。標高67.2mの高台、敷地面積8.1ha、公園東側からは、太平洋が一望できます。一帯が36品種、約665本の桜の木で覆われ中央は、広大な芝生になってます.H20年3月に柴田農林高校の学生がバイオ育苗した「仙台吉野桜」の苗木5本植樹しました。又「太白さくら」も、この地で命名された桜木です。今年(H21年)より、新たに遊歩道、茶屋(資料館)を設け、益々市民の憩いの場と、なってます。 交通機関:市営・宮城バス西多賀1丁目西 三神峯公園入 口下車 |
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@竪穴式住居跡 | A富沢窯跡 | B行啓記念碑 | C行啓記念の松 |
雄健神社の基礎跡 | 雄大剛健の碑 | A聖徳光被の碑 | 東北大学三神峯明善寮懐旧の碑 |
第41期卒業記念の碑 | 三角点標石 | 二高尚志の碑 | 忠魂碑 |
←現在の三神峯 | |||
現在の幼年学校正門 | 現在の雄健神社基礎跡 | 仙台吉野 | |
←幼年学校あったころの 三神峯 |
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当時の幼年学校正門 | S.12年建立の雄健神社 | 多賀神社所有地 を示す板碑 |
右の校舎があった現在 地です。 | ||
幼年学校講堂と集会所 |